高城山子安観音について

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高城山子安観音について

高城山子安観音の歴史

今から1300年前の和銅年間(708~715)の頃、豊後の地の大分川と大野川の中間にある高台に、豪族阿曽小連(あそのこむらじ)が一族を従え居を構えておりました。阿曽小連は、近郷に住んでいた古賀中納言の娘を娶り、妻はやがて懐妊(出産)の期を迎えました。

いよいよ臨産に臨んだ妻でしたが、名婆の祈祷もなしく、赤ん坊の産声はなかなか聞こえず、妻は七昼夜苦しみました。母子共に苦渋の時を迎えていたのです。その様子をみた阿曽小連は、はっと思いだしました。阿曽小連はかつて、自ら鉈彫り(なたぼり)した如意輪観音像を昼夜拝んでいましたが、結婚してからは妻に夢中で、いつしか拝むことを忘れてしまっていたのです。

それを思い出した阿曽小連は、厨子へ飛んでいき、如意輪観音像に「どうか我が妻と子どもをお救い下さい。」と沐浴合掌しました。するとどうでしょう。ほどなく玉のような男子が産まれました。男子を産んだ妻も無事でした。本尊に沐浴合掌したおかげで、母子共に健全に無事出産することができたのです。

それからというもの阿曽小連は、以前よりさらに如意輪観音像を敬い、近隣の者たちにも如意輪観音像を拝むことを許しました。

この話を聞いた旅の僧行基菩薩は、阿曽小連の鉈彫の仏像に一刀三礼してのみを入れ、厳かに開眼供養をし、この寺の名を、生まれることを慶ぶ寺”生慶寺”としました。

その後この”生慶寺”は、安産成就の寺として、豊後一円に浸透していきました。

戦争を生き抜いた御本尊

高城山の風景

空からの戦後の境内

高城山子安観音は、15世紀、大分(豊後)の大友一族の天正の乱の際、兵難によって全山焼失しましたが、本尊は池に沈められ難を逃れました。数十年後、沈められていた本尊が池から浮かび上がってきたため、再建されたといわれています。

その後、第二次世界大戦中、高城山北川平野に海軍航空廠が設置され、周辺には軍事施設が立ち並びました。昭和20年の空襲で、本堂はふたたび全焼し、本尊以外のものがすべて崩壊してしまいました。本尊は、住職が背負って逃げたため、難を逃れました。

砲火を浴びながらもかろうじてその姿を残した本堂前の石灯籠には、戦争当時の焼夷弾の跡が残っています。

終戦後早々に、仮本堂として、木造の小堂が建てられました。その後平成2年に本格的再建されるまでに、実に40年という長い月日を費やしました。

戦後から現在に至るまで

空からの戦後の境内

当山は、昭和54年、復興事業として、高城山墓苑事業を開始いたしました。

それに平行して、本堂再建に取り組み、昭和58年に慈眼堂(供養堂)を建立しました。本堂は、昭和62年より新築工事を開始。平成2年5月に落慶竣工し、戦後の復興事業を達成しました。

平成復興前の本堂

九州西国観音霊場第9番札所,豊後西国観音霊場第1番札所

仏教の仏さまはさまざまいらっしゃいます(如来・菩薩・明王・天など多数の仏さま・・・)。観音巡礼とは、仏さまのなかでも人気の高い観音様が祀られているお寺を巡礼し、信仰を深めたり、お願い事をしたりすることです。

観音霊場は33の寺院で構成されています。33という数字は、観音経において、観音様が人々の悩みや苦しみを救済する為に33の姿に身を変えることからきています。

高城山子安観音は、九州西国三十三箇所のうち霊場第9番札所,豊後西国三十三箇所のうち豊後西国第1番札所とされています。

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本尊「如意輪観音」

如意輪観音

当山の本尊は、如意輪観音(にょいりんかんのん)です。

如意輪観音像は、右膝を立て、右手で頬杖をついて座っている姿をしているのが特徴です。通常、如意輪観音像は6本の手を持っていますが、当山の本尊の手は2本です。

如意輪観音像は、意の如く願いをかなえてくださるといわれており、戦時中、当時の住職が、防空壕に避難した際、腕にこの本尊をかかえていたというお話も残っているほどです。

如意輪観音は、今もかわらず、たくさんの妊婦様の安産祈願、所願成就をお祈りしております。

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